訪問歯科診療のご案内
通院が困難な方やお身体が不自由な方 の
歯科往診サービスを行っています。

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⑧腹話術協会入会
30歳の頃、往年の大スター、川上のぼる師匠の舞台を見てから「いつか腹話術をやってみたい」という気持ちがありました。その機会がひょんな事からやってきたのです。平成7年、39歳の時、和歌山市のPTA連合会の副会長をしていた私は、和歌山市民会館で、教育講演会の司会をおおせつかりました。当時の教育委員長の坂口全彦先生の講演を舞台袖で見ていると、先生が途中で腹話術の人形を取り出し、人形との会話を通して、ユーモアたっぷりに子育てのお話をされました。講演も大変素晴らしいものでしたが、私は人形の方に目が引き付けられました。講演後「私も腹話術をやりたい」旨をお話すると「私が会長を務める和歌山腹話術協会に入って、一緒勉強しましょう。歯科医では吉田さんが初めてなので歓迎します」とのお誘いを受けました。渡りに舟とばかり、すぐに入会しました。練習は月1回で、各自演じて先輩会員に直してもらうという形式でした。私は高校時代から集めた落語と漫才のレコードやテープからネタを拾い出し、自分なりにアレンジしてネタを作りました。半年くらいすると人形使いもさまになってきました。そして、入会して1年たつかたたないうちに発表会にも出ました。そこで、新人のわりには上手いとおだてられたのをきっかけに、PTAの集会や宴会の余興で腹話術を披露する機会が増え、皆に喜んでもらい悦にいっていました。豚もおだてりゃ木に登る?ではありませんが「自分の芸はどのくらいのレベルなのだろう。腕試しできる場はないだろうか。一度試したい」という心がもたげてきました。そこで頭に浮かんだのが子供の頃から見ている「素人名人会」だったのです。落語や漫才の出場者は多いが、腹話術はあまり見たことがない。チャンスがあるかも?「これだ」と思い早速、往復ハガキで予選出場を申し込みました。しかし、この衝動的に書いたハガキが後々、大変な苦労になっていくのです。
(2010年01月15日)
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⑦懐かしい出会い
大学卒業後、地元の歯科医院で勤めるようになりました。26歳で結婚し、子宝にも恵まれ、平穏な生活を送っていました。記憶は定かではありませんが、30歳の頃、家内と幼い長女と一緒に大阪千日前を歩いていた時、演芸場の「浪速座」の前で足が止まりました。その出演者の看板に懐かしい「川上のぼる」の名前を見つけたのです。その頃、テレビではあまり見かけなくなっておりましたので、「あの腹話術の川上のぼる、まだ活躍していたのか」という驚きとともに「見てみたい」という感情が湧き上がり思わず切符を買っていました。会場に入ると半分くらいの入りでしたが、小さな子供でも舞台が見えるように一番前の席を取りました。何人か芸人さんが出たあと。いよいよ川上のぼるの出番です。内容はハッキリとは覚えていませんが、昔テレビで見た、あの一世を風靡した川上のぼるが目の前で腹話術をやっている感慨というか嬉しさというか、今この場で時間を共有している幸せを感じていました。私の子供は3歳くらいだったと思うのですが、人形がしゃべるのが、よほど面白かったのでしょう。思いっきり手を叩いて、目を輝かせているではありませんか。その姿に気付いた川上師匠は娘に向かって「お嬢ちゃん、応援してくれてありがとう」と人形にしゃべらせてくれました。子供は、またまた拍手、拍手のはしゃぎよう。あっという間のひと時でした。この懐かしい出会いが後々、私を腹話術の世界に引き込むきっかけになっていくのです。
川上のぼる師匠
(2010年01月05日)
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⑥ぼやきの吉田
高校生時代、これと言った目標が無いまま過ごした私でしたが,無事大学に合格しました。「何かをやりたい」という体から湧き出るものがありました。残念ながら落研はなく体育会系の『日本拳法部』に入部しました。このスポーツは面、胴、股間ガード、手にはグローブを装着し、殴り、蹴り、投げ合うという、言うなれば防具を着けて空手と柔道をするようなハードなものでした。今、考えると、「あんな事をよくやっていたな」と思うほど過激で危険な武道です。そんな入部して間もない頃、先輩から「今度歓迎コンパをするので、新入生は全員その席でかくし芸を披露してもらう。考えておくように」との話がありました。私が考えた出し物は、その当時、遅咲きながら人気が出だした漫才コンビ「人生幸朗・生恵幸子」のぼやき漫才でした。ネタは高校生の時ラジオから録音したもので、そっくりそのまま暗記して、練習を重ねました。ネタの一部を紹介すると「水前寺清子のヒット曲、365歩のマーチ。これほど皆さんを馬鹿にした唄、おまへんで。1日1歩、3日で3歩、3歩進んで2歩下がる。3日で1歩しか進まんやないかい!!」とか「研ナオコのヒット曲、カモメはカモメ。あたりまえやないかい!!」etc・・・これを私が人生幸朗になりきって肩をゆらしながら「まあ、皆さん聞いてください」とやるのです。部員だけでなく、その場にいる人、皆、腹を抱えて笑っているではありませんか。大受けでした。初めて、観客を笑わせ、喜んでもらうという「恍惚感」を体験した瞬間でした。これをきっかけに、コンパなど、事あるごとに「ぼやき漫才」を披露した私は「ぼやきの吉田」とニックネームを付けられ、大学の卒業式の謝恩会では「大トリ」をつとめるという栄誉?まで獲得したのです。勉学の方は何とか6年で卒業したという感じですが、「日本拳法部」の活動は最後までやり通し参段をいただきました。そして、趣味の世界では「人を笑わせ、喜んでもらう」という楽しみを覚えた充実した6年間の学生生活でした。
(2009年12月19日)
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⑤初めて覚えた落語
高校生になって、中学生時代、あれほど夢中になっていた柔道も半年ほどで、やめてしまいました。かと言って、勉強にも身が入らず、唯一の楽しみが「落語」を聞くことでした。この頃はラジオでも落語の番組がよくありました。それを録音したり、レコードを買って繰り返し聞いていました。何回も聞いていると知らず知らずの内に覚えてしまい、クラスの友人2~3人の前でやっては受けて悦に入っていました。自己満足の世界です。その初めて覚えた落語が桂三枝の「七度狐」という噺です。上方落語では入門者、つまり前座が覚えさせられるネタだそうです。その時はそんな事は知らず、ストーリーが面白そうだということと三枝師匠の口調が自分に合っているように感じて覚えてしまったのです。この他に「善哉公社」 「池田の牛ほめ」も暗唱しておりました。二つ下の弟も落語が好きで、私の買ってきたレコードや、ラジオの落語番組を良く聞いていました。特に桂米朝がお気に入りで、ある時2枚組のLPレコード「桂米朝・上方落語大全集」を買って来た時はびっくりしました。全集は揃える事はできませんでしたが我が家には5集、つまり10枚のLPレコードが残っています。弟は演じることはせず、落語に関する書物や沢山のネタが載っている歴史的な文献などを読むのが好きで、私とは少し落語の楽しみ方が違っていました。今、振り返って見ると、高校時代はエネルギーが有り余っているにもかかわらず、何をして良いのかわからない。けれども何か打ち込むものが欲しい、自分独自のものを何かやりたい、というものが漠然とあったのかもしれません。それが学校の勉強であれば、それにこした事はなかったのですが・・・私の場合、落語を覚え、人に聞いてもらったり、独り言のように呟いている時が唯一、自分だけの世界にひたれる時間だったような気がします。
(2009年11月10日)
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④1080分落語会
昭和46年、私が中学3年生の時、空前絶後の落語会が開催されました。朝日放送が企画した「1080分落語会」です。午前7時から翌日の午前1時まで18時間ぶっ続けで、上方落語協会の噺家が入れ代わり立ち代わり57席の落語を語るという途方も無いものでした。当日、ラジオで生放送をやっていたらしいのですが、私は聞きそびれてしまい、後日、記念の3枚組LPレコードを購入しました。この中には最初の口上と最後の手締めの他、12席の落語が収録されています。その演者とネタは別表の通りです。読者の皆さんには馴染みのない名前が一人あると思います。橘ノ円都です。当時の最長老で持ちネタの多さも随一で、上方落語界の影の功労者です。その他の11人は人気者が顔を揃えており、現・上方落語協会会長、桂三枝の名も見られます。先日、20年ぶりにこのLPレコードを聞きました。上方落語ブームの真っ只中、満員の会場の観客のほとばしる熱気と演者のやる気が伝わってきて、ついつい噺に引き込まれてしまい、気が付いてみるとあっという間に12席聞いてしまっていました。この「1080分落語会」をきっかけに上方落語協会はさらに発展の一途を辿るのです。
(2009年10月08日)
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③上方落語ブーム到来
小学生の時、落語と出合った私は中学生になると益々その魅力に引かれていきました。おりしも、テレビ、ラジオでは若手落語家がもてはやされ、「仁鶴」「三枝」に代表される人気者が次々と登場して来たのもこの頃です。上方落語と言えば、お芝居や唄にもなっている伝説の爆笑王「初代・桂春団冶」が有名ですが、昭和の初期、上方落語は寄席でもかなり演じられ、落語家も相当いたようです。しかし、エンタツ、アチャコの「漫才」が寄席の中心になるとどんどん末席に追いやられ、落語家自体の数が少なくなりました。戦後は上方落語界の大黒柱であった大物噺家「五代目・笑福亭松鶴」や「二代目・桂春団冶」が立て続けにこの世を去ったこともあり、落語家が10人以下になってしまい、上方落語は滅びるかもしれないという深刻な事態に陥りました。そこで上方落語の灯を消してはならないと立ち上がったのが四天王と言われる「六代目・笑福亭松鶴」「桂米朝」「三代目・桂春団冶」「桂小文枝」です。この4人の活躍が現在の上方落語の基礎を築いたと言っても過言ではありません。私が中学3年生の昭和46年頃には、50人を抱える「上方落語協会」に発展していました。上方落語の復興がなったのです。
(2009年09月25日)
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②落語との出合い
父親が言うには「母方のお祖父さんはうたい(謡曲)が玄人はだしで、町内で婚礼があるといつも呼ばれていた」とのことです。独身の時、謡曲をプロの師匠に付き、習っていたらしいのです。その芸人の血が私にも流れているのかも?と言いますのは、小学生の頃から吉本新喜劇や松竹新喜劇ははもちろん、漫才などの演芸番組が大好きでした。落語も好きで、東京の噺家が今の「笑点」の大喜利のような形式で出演していた「お笑いタッグマッチ」や「末広珍芸シリーズ」というような番組を好んで見ていました。ここで初めて落語家なる者を知り、「噺家とはトンチを効かせたなぞかけや小咄をする人」というイメージを持ちました。一つの噺として最初に「落語は面白い」と感じたのは三遊亭歌奴(現・円歌)師匠の「j授業中」や「浪曲社長」を聞いてからだと思います。 円歌師匠とは何か縁があるのでしょうか。三十何年後に、この大師匠の前で私が落語を一席語る羽目になるとは夢にも思いませんでした。

円歌師匠と
(2009年09月20日)
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①私の趣味
皆さんも趣味はおありかと存じますが、私の趣味は「写真撮影」と「落語」、「腹話術」です。写真は我流ですが中学生の時にコダックのコンパクトカメラを親からもらって以来の写歴です。落語は高校時代から、腹話術は37歳から始めて、16年になります。写真も大変面白いのですが、今回は落語と腹話術に関して書かせていただきます。 この二つの趣味が、私の人生を豊かにし、さまざまな人々との出会いを生んでくれました。連載という形で、私の子供時代から現在に至るまでの趣味とのかかわりをこの欄に掲載いたしますので、お付き合い下さい。次回は「落語との出合い」 についてです。
(2009年09月17日)
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日本催眠応用医学会で発表
先日、東京で行われた日本催眠応用医学会のセミナーで「笑いで元気に」という演題で発表を行いました。患者さんと歯科医の関係を良好に保つにはどうしたらよいか?患者側と歯科医側の両面から、30年の臨床経験で学んだ事をお話しさせていただきました。また、後半は趣味の腹話術も披露し、喜んでいただきました。
(2009年09月15日)
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