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⑳趣味との付き合い
やっと名人賞を獲ることができましたが、4回にも及ぶ挑戦は苦痛でもありました。しかし、良い事もやってきました。例えば、母校の大学から「笑いと健康」というテーマで市民公開講座の講師を任されたり、保健所から講演をたびたび依頼されるようになりました。なかなか人前で話す機会が少ない開業医にとって良い経験になりました。「好きこそ物の上手なれ」という言葉がありますが最初、好きで始めた事がテレビ出演によって、見ていた方の関心を引き、話す場を与えられました。また、落語や腹話術を熱心に練習したお蔭でプロの芸人さんと同じ舞台に立てたり、親しくお話する機会に恵まれましたが、「自分はアマチュアで良かった」というのが実感です。芸で生計を立てるプロの厳しさを垣間見たからです。脚光を浴びている芸人さんは、ごく一部で、大部分は不安定な暮らしをしているのが現実です。現在、落語はとんと演じる機会がなくなり、CDやDVDの鑑賞ばかりです。就寝時には必ず落語のCDを聞くのが日課になっています。今は、11月27日(土)の「腹話術の祭典」でネタ下ろしする「手水廻し」を稽古中です。久々の高座なので、不安もありますが楽しみです。また、たまに「天満天神繁昌亭」にも行きます。若手からベテランまでの上方落語を堪能できるので、いつも満席状態です。腹話術の方は毎年、校医を務める楠見小学校の「ブラッシング指導」で役立っています。普通なら退屈な時間も人形の“ケンちゃん”とのやりとりを目を輝かせて一生懸命聞いてくれます。帰り際に「ケンちゃん、また来てね」と、名残惜しそうに付いてくる子もいるくらいです。コンテストへの挑戦はもう終わりました。これからは自己満足で良いから、もっと肩の力を抜いてやることにしようと思います。自分が楽しんで、且つ見ている皆さんに少しでも喜んでいただけたら本望です。今回をもちまして、私の趣味のお話を終わらせていただきます。20回にわたり、お付き合いいただき有難うございました。
(2010年09月05日)
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⑲さらば素人名人会
名人賞を獲得した反響は大きく、テレビ放送の翌日には友人からのファックスや電話でのお祝い、患者さんからの花束などがたくさん届けられました。それは大変嬉しい事ではありましたが、「やっと、これで一区切りついた」という安堵感と空虚感とが自分を襲っていました。思い起こせば、始まりはPTAでした。PTAの会長を経験し、そこで腹話術と出会い、名人会を獲れなかったので再挑戦のため練習を積んで予選に臨み、当日、声がつぶれたので急遽、落語に変えて予選合格。本選で腹話術より良い評価を受けたものの名人賞には届きませんでした。落語で名人賞を獲ろうとプロの教えを受けたり、何度も生の舞台に足を運んで勉強しました。そのお蔭で数々の芸能人の方とお話できたり、知り合いにもなれました。その中でも浪速座の楽屋で、子供の頃からファンだった夢路いとし・喜味こいし師匠とお話させていただいた事が一番の思い出です。しかし、まさか高校時代から趣味だった落語を40歳を過ぎてから舞台で演じることになろうとは夢にも思いませんでした。この4年間をかけて名人賞へ挑戦を続けたことは自己満足のためだけかもしれませんが、目標を持って頑張る事の重要性を実感しました。(人から見るとくだらない事かもしれませんが・・・)最初、冗談半分にテレビへ出演した事が、次々に思ってもみないところへ自分を動かし、忘れかけていた落語を思い出させてくれました。人生とは面白いものです。この「素人名人会」も私が出場して半年ほどして、時代の流れか、視聴率には勝てず、平成14年3月17日の放送をもって42年間の幕を閉じました。最終回を見て、神野美伽、坂本冬美、田中星児、桂三枝、阪神・巨人、大介・花子、ダウンタウン、MR.マリックなど数々の歌手、芸人さんがアマチュア時代、この番組に出場していた事を知って驚きました。 上方の懐かしい味のある名物番組がまた一つ消えてしまったのです。

(2010年08月01日)
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⑱名人賞獲得
舞台そでで、自分の出番を待っていました。プログラムは進行していき、西川きよし師匠から「次は落語です。どうぞ」と声がかかりました。「よし、やるぞ」舞台に進むと例のごとく自己紹介を兼ねた師匠とのやりとり。気持ちがはやっているのか、その時間がいやに長く感じられました。「お馴染みの煮売り屋です、名人賞祈ります」の声でいよいよ本番。「古典落語でございまして、大阪の馬のおうた2人の男。お伊勢参りをしょうやないかと東へ東へとやってまいります。・・・」何百回と繰った出だし。快調、快調。山場の煮売り屋と旅人のやりとり。「おからは、どうじゃな?」「おからは、目が赤なって耳が伸びるからやめとこか」「ごんぼはどうじゃな?」「屁がでるな-」ここで観客から、どっと笑いが起こりました。自分が思ったところで受けたので内心「いけるかも?」と思い、無我夢中でしゃべりました。「いかの木の芽あえ2人前作って」「あかん」「ほたら1人前」「あかん」「ほたら」「あかん」「ええ加減にせえよ、ほたらもあかんのか」キンコンカン、キンコンカンの連打。「名人賞!」と西川師匠が叫びました。高座を下り、メダルを首にかけてもらい、続いて月亭八方師匠の講評。「完璧に覚えているのがすごいが、全体に陰気なので、もう少し陽気にやる方が良い」とのこと。とにかく名人賞を獲ることができて、ほっとしました。舞台裏に戻ると、前のディレクターの和田さんが「おめでとうございます。遂にとりましたな」と笑顔で祝福してくれました。第1回目の予選から見ていてくれた方からの言葉だったので本当に嬉しく思いました。私の素人名人会への挑戦はやっと終わったのです。
(2010年07月15日)
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「⑰出番前」
平成13年10月6日。4回目の「素人名人会」の本選、テレビ収録の日がやってきました。最初、面白半分に出場した「名人会」がいつの間にか名人賞を獲る事が目標になり、プレッシャーに変わってきていました.南海電車に揺られながら、会場のNGKまでずっと、ネタを繰り続けました。楽屋で、芸人でもない素人の自分がここに居る事が不思議で、嬉しいような怖いような感覚を、またもや味わっていました。リハーサルに向かうと、ゲスト歌手の城之内早苗の音合わせが行われていました。スラリと背の高い美人歌手で、「いい歌だ」と聞きほれていました。3回歌って城之内嬢は控え室に消えていきました。いよいよ出演者のリハーサル。落語はいつも最後なので、ゆっくり構えていました。慣れとは恐ろしいもので、今までとは違って回りの状況がよく見えるような気がするのです。他の出演者はそわそわしているように見えます。リハーサル後、控え室に戻り本番を待っていると、間もなく「本番です。舞台へお越しください」との知らせ。暗い通路を抜け、緞帳が下りている舞台へ。袖のスチール椅子に腰掛け待ちました。ほどなく西川きよし師匠が現れ、「西川です。今日はよろしくお願いします」と出演者全員に深々と頭を下げました。
(2010年06月22日)
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⑯最後の挑戦
落語で3回目の予選を突破した私は色々思案をめぐらしていました。テレビの本番までにネタを仕上げておきたかったのです。予選のままでは芸がありません。そもそも『七度狐』は上方落語の東の旅で大阪から伊勢参りまでの道中の噺の一つ、一部であり、3分のテレビ出演でクライマックスの笑いまでには時間が足りません。そこで『七度狐』の前段の『煮売り屋』を稽古することにしました。この噺は会話の中に笑いが多く、3分の持ち時間にはピッタリと判断したからです。ちょうど桂 南光師匠のビデオがあったので、その中でギャグがある会話の部分を最初にもってくることにしました。自分なりに3分間の噺にまとめ、何度も練習しました。それをビデオに録って、福団冶師匠にも見てもらいました。そうすると、私の癖が判明したのです。それは落語では右、左と向いて登場人物の会話を表現しますが、その癖とは上(かみ)下(しも)どちらを向いてしゃべる時も顔をが上を向いてしまうというもので前座、新人の噺家にはよく見られる欠点だと指摘されました。そして、近くと遠くを見る時の視線の位置を特に注意されました。我流の悲しさか、今まで全く気付いていなっかったのです。師匠のアドバイスは本当にありがたかった。テレビ収録の1週間前の土曜午後、どうしても稽古を付けて欲しかったので、夜に京都で仕事があるという師匠に無理にお願いして、難波のホテルで待ち合わせました。ところがホテルの喫茶店は満員で、仕方なくロビーで稽古を付けてもらうことになりました。野郎2人がブツブツと仕草を付けて何やら話をしているのだから、周りの人にはさぞ、異様な光景に見えたに違いありません。1時間あまり稽古を付けてもらったでしょうか。「大丈夫でっしゃろ」の師匠の最後の言葉を心の支えに本番を迎えることになるのです。
(2010年06月13日)
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⑮最後の予選
平成12年11月18日、インプラント学会の懇親会に出席した私は旧友と不覚にも遅くまで飲んでしまい、ホテルに帰ったのは午前1時を過ぎていました。普通ならそのまま寝てしまうのですが、相当アルコールが入っているにもかかわらず、目がさえて寝付けませんでした。洗面所の鏡の前で、何度もネタを繰りました。選んだネタは取っておきの「七度狐」、何百回と練習した得意ネタ。これが駄目なら自分の今までの落語が否定されるような恐怖のようなものを感じていました。正に背水の陣です。3時間ほど、うとうとしたでしょうか。ほとんど寝ていないはずなのに6時には目がさめました。早朝、「雷鳥12号」に乗り、一路、大阪の予選会場「難波グランド花月」を目指しました。演芸部門挑戦者は10組。予選は何度も経験済みですが、今回は今までの公開スタジオと違って、体育館のように広く、天井の高いレッスンホールで、テレビカメラの方を向いて演技を行うのです。場所が変わったせいもあり、極度に緊張しているのが自分でもわかりました。「次は吉田さん」と呼ばれ、マイクの前に立ち、「エー、古典落語でございまして、大阪の馬の合うた二人の男。お伊勢参りをしょうやないかと東へ東へとやってまいります。・・・・・・」と夢中でしゃべりました。2,3分たった頃にピンポン♪と合格チャイム。この日の合格は私と漫才の二組。何とか合格できました。「自分が否定されなくて良かった」という安堵感で全身の力が抜けました。こうして強行軍の2日間は無事終わったのでした。
(2010年06月05日)
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⑭4度目のネタ
福団冶師匠に個人的に教えていただける約束をもらった私は一安心しました。ただその一方「素人名人会」の4度目の挑戦を考え出していました。最初は思い出になればと、気軽な気持ちでテレビ出演を思い立ったのでしたが、この頃には<何が何でも名人賞を取るのだ> という義務感に変わってきていました。しかし、「素人名人会」の番組自体が毎週放送されていたものが月2回になり、1回の月も出てくるようになりました。「ひょっとしたら番組が中止になるかも?」という心配もでてきました。さて、4度目のネタは何が良いだろう?今までは、とにかく3分間で出来るだけ笑いがある方が良いと考えて、ギャグがたくさんあるものをと新ネタを覚えてチャレンジしてきましたが、今度は自分の一番話し慣れた噺を選ぶことにしました。『七度狐』です。この噺には思い入れがありました。高校1年生の時、生まれて初めて落語のレコードを買い、最初に覚えたのがこの噺で、人前で演じたのは二、三度でしたが何百回と繰った落語でした。これでだめだったら仕方ないというとっておきのものです。そして、4度目のハガキを出して予選の連絡を待ちました。返信のハガキが届き、日程を見て愕然としました。平成12年11月19日(日)。この日は福井で行われる近畿・北陸インプラント学会の二日目で、事前登録も既に済ませていました。どうしても会わなければいけない人があり、福井にも行きたかったのです。迷いに迷った末、(18日に福井へ行って、19日の朝早く出れば大阪の予選に間に合う)と考え、どちらも参加する道を選びました。
(2010年05月30日)
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⑬落語教室終了
落語教室へ通い始めた私でしたが、自分は本格的な落語を覚えたいと思っているにもかかわらず、教室ではあいも変わらず小咄の練習や雑談で時間が過ぎていきました。そして、一番がっかりしたのは、福団冶師匠の仕事の都合で、ご子息の福若さんが代稽古に来られた時で、どうもいまひとつ熱が入りませんでした。それというのも「犬の目」という落語を教えてくれるのですが、私自身この噺を桂春蝶さんのビデオで知っておりましたので、他の方がやると、どうしても違和感を覚えたのです。6ヶ月通いましたが、結局一つの噺も最後まで通して練習することはできず、消化不良のまま落語教室は終わってしまいました。この半年間は目の使い方や間の取り方など、プロの芸を間近で見ることができ、自分の練習というより観客のような感じで楽しい時間でしたが、当初の目標である「素人名人で名人賞を取るための稽古」には程遠い内容でした。それは仕方のない事で、落語教室に通っている他の皆さんはコンテストに出るのが目標でないのですから、私に合わせて稽古をして欲しいというのが所詮無理な話なわけです。最後まで、自分の希望を師匠に打ち明けられずに終わってしまったのでした。それから一月もたった頃でしょうか、意を決して今までの経緯や「素人名人会」で名人賞を目指していることを伝え、できれば個人的に稽古をつけてもらいたい旨のお手紙を書きました。すぐに師匠から快く稽古をつけていただけるとのお返事がありました。こうして、福団冶師匠との師弟関係が始まっていくのです。
(2010年05月13日)
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落語教室入門
カルチャーセンターの「落語教室」での初めての練習日を迎えました。その教室は阪急梅田駅から歩いて7~8分の雑居ビルの3階にありました。ドキドキしながらエレベーターを降り、受付を済ませて教室に向かっていくと、すでに2名の初老の男女が畳に座っておられました。後から40歳くらいの女性が来られて、私を含めて生徒4人。「さみしい教室」でした。各自、自己紹介をすませると、いよいよ福団冶師匠のお話が始まりました。その内容は芸能界の裏話や上方落語界の大師匠連の内輪話など、大変興味深いものばかりでした。そして、落語の稽古は小咄を一つ教えてもらいました。師匠が先ず、お手本で演じ、生徒がそのとおり真似をして悪いところを直してもらうという形式です。あっという間の90分でした。終わったあと、初老のお二人と話す機会がありました。男性の方は税理士さん。女性は美容師さんでした。どちらもお仕事は現役のバリバリで、落語を人前でやれるようになりたいという共通の目標を持たれておりました。すでに1年前から通われているとのことで、この教室での練習法を聞くと、師匠が言ったことを口移しで覚えるという旧態依然とした練習方法をとっていて、テープレコーダーは許されず、メモのみ。「なんと古い」と思いました。こんな方法で落語が上達するのだろうか?と不安を募らせつつ、1日目の稽古を終え、家路に着きました。
(2010年04月26日)
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師匠を求めて
素人名人会に落語で2回目の出場を果たしましたが、またもや結果は「名人賞」に届かず「審査員賞」に終わりました。もう少しで名人賞なのに、何かが足りない。審査員の文枝師匠の批評も素人の悲しさか、理解できませんでした。誰か教えてくれる人はいないだろうか?と日々悶々と考えておりました。ある日、夕刊を見ていると、カルチャーセンターの広告記事があり、その中に「落語教室」なるものを見つけました。場所は大阪梅田。練習日は月2回。時刻は土曜日の午後6時。「これなら行ける」と思いました。そして、講師が桂 福団冶師匠。この師匠の名は落語ファンの私はよく知っていました。三代目、桂 春団冶師匠の一番弟子で、若き日、藤本義一の直木賞受賞作「鬼の唄」の映画で、主演をした事や、若手の期待の星として、角座で、桂 枝雀らと同時に襲名披露をした事、上方落語界では人情噺の第一人者である事などです。こんな大師匠が落語を教えてくれるというのです。まるで夢のような話で、渡りに舟とばかり、すぐに電話で申し込みました。落語の基本を教えてもらえば名人賞もとれるに違いないと考えたのです。それと同時にプロの落語家の噺を直に聞くことができるという何かワクワクする気持もありました。さぞ、活気のある教室で、「すぐに落語が上手くなるだろう」という期待に胸をふくらませて、初めての稽古に臨みました。
(2010年04月19日)
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⑩落語での挑戦
2回目の素人名人会に落語で出演することになった私は昔、録ったカセットテープやビデオを引っ張り出して、自分なりに研究、練習をして「鉄砲勇介」というネタで、本番に臨みました。結果は「審査員賞」。桂文枝師匠の評価は「きっちり、覚えてはるんですけどね。話に山川を付け過ぎて、云々」 という事で、要は「話に抑揚を付け過ぎなので、もう少し普通に話せ」ということでした。自分としては上出来で、ある程度満足でしたので、もう「素人名人会」は終わりのはずでした。それが、後で「審査員賞は、敢闘賞より上で、もう少しで名人賞の人に出すものなんですよ」とスタッフの方に教えられ、自分の中で「腹話術より落語の方が評価が高い。落語をもう少し練習すれば名人賞をとれるかも?」と次の出演のことを考え始めたのです。再び予選に挑戦できる出し物はないだろうか?どうしたら名人賞を取れるのだろう?最終的に選んだのは短い中にもギャグが沢山ある「色事根問」という噺で、しかも文枝師匠の得意ネタ。「これを、完璧に覚えよう。そうすれば名人賞を取れるだろう」と何回となく文枝師匠のビデオを見て、しぐさや口調を繰り返し稽古し、マスターしたつもりでした。そして、予選も通過し、本戦の結果はまたもや「審査員賞」。とちってもいないし、自分では完璧なはずなのに何故?講評は「のりが悪い」とのことでした。素人の悲しさですね。言っていることが不可解でした。この2回の「審査員賞」で「名人賞」を取りたいという気持ちが益々高まっていったのです。
講評を聞く筆者
(2010年04月04日)
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⑨初のテレビ出演
「素人名人会」に応募した私は、千里の毎日放送へ予選を受けに行きました。見事?合格し、本選(テレビ放送)に出る資格を得ました。13組中合格3組。ラッキーとしか言いようがありません。テレビに初出場した結果は鐘の連打ならず、「うまいで賞」つまり参加賞をもらっただけの成績でした。患者さんや友人からは「テレビ見ました」「うまかったね」とか「惜しかったね」と慰められましたが、自分自身、この結果に満足がいかず、「何とかもう一度出て名人賞を!」と思い、テレビ初出演から1年もたたないうちに再び予選を受けました。しかし、予選前日、猛練習がたたり声が嗄れてしまい、全く腹話術ができなくなってしまいました。「明日の予選は受けられない」と思い「落語ならできるかも?」と高校時代覚えた「鉄砲勇介」を口ずさんで見ました。ネタがスムーズに出るではありませんか。よし、審査員に無理を言って落語をやらせてもらおうと決めたのです。予選当日、やはり、声は嗄れたままで、審査員の方に森進一のような声で、「練習をやりすぎて、こんな声になってしまいました。腹話術はできませんが、普通に何とか話せます。落語をやらせてもらってよろしいでしょうか?」 と聞いたところ「声を飛ばしてしまったんですね。同じ演芸部門ですから、落語をやっていただいて結構ですよ」とお許しが出ました。これも不思議や不思議、予選合格。2回目のテレビ出演は落語でということになったのです。
初めての素人名人会
(2010年03月11日)
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⑧腹話術協会入会
30歳の頃、往年の大スター、川上のぼる師匠の舞台を見てから「いつか腹話術をやってみたい」という気持ちがありました。その機会がひょんな事からやってきたのです。平成7年、39歳の時、和歌山市のPTA連合会の副会長をしていた私は、和歌山市民会館で、教育講演会の司会をおおせつかりました。当時の教育委員長の坂口全彦先生の講演を舞台袖で見ていると、先生が途中で腹話術の人形を取り出し、人形との会話を通して、ユーモアたっぷりに子育てのお話をされました。講演も大変素晴らしいものでしたが、私は人形の方に目が引き付けられました。講演後「私も腹話術をやりたい」旨をお話すると「私が会長を務める和歌山腹話術協会に入って、一緒勉強しましょう。歯科医では吉田さんが初めてなので歓迎します」とのお誘いを受けました。渡りに舟とばかり、すぐに入会しました。練習は月1回で、各自演じて先輩会員に直してもらうという形式でした。私は高校時代から集めた落語と漫才のレコードやテープからネタを拾い出し、自分なりにアレンジしてネタを作りました。半年くらいすると人形使いもさまになってきました。そして、入会して1年たつかたたないうちに発表会にも出ました。そこで、新人のわりには上手いとおだてられたのをきっかけに、PTAの集会や宴会の余興で腹話術を披露する機会が増え、皆に喜んでもらい悦にいっていました。豚もおだてりゃ木に登る?ではありませんが「自分の芸はどのくらいのレベルなのだろう。腕試しできる場はないだろうか。一度試したい」という心がもたげてきました。そこで頭に浮かんだのが子供の頃から見ている「素人名人会」だったのです。落語や漫才の出場者は多いが、腹話術はあまり見たことがない。チャンスがあるかも?「これだ」と思い早速、往復ハガキで予選出場を申し込みました。しかし、この衝動的に書いたハガキが後々、大変な苦労になっていくのです。
(2010年01月15日)
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⑦懐かしい出会い
大学卒業後、地元の歯科医院で勤めるようになりました。26歳で結婚し、子宝にも恵まれ、平穏な生活を送っていました。記憶は定かではありませんが、30歳の頃、家内と幼い長女と一緒に大阪千日前を歩いていた時、演芸場の「浪速座」の前で足が止まりました。その出演者の看板に懐かしい「川上のぼる」の名前を見つけたのです。その頃、テレビではあまり見かけなくなっておりましたので、「あの腹話術の川上のぼる、まだ活躍していたのか」という驚きとともに「見てみたい」という感情が湧き上がり思わず切符を買っていました。会場に入ると半分くらいの入りでしたが、小さな子供でも舞台が見えるように一番前の席を取りました。何人か芸人さんが出たあと。いよいよ川上のぼるの出番です。内容はハッキリとは覚えていませんが、昔テレビで見た、あの一世を風靡した川上のぼるが目の前で腹話術をやっている感慨というか嬉しさというか、今この場で時間を共有している幸せを感じていました。私の子供は3歳くらいだったと思うのですが、人形がしゃべるのが、よほど面白かったのでしょう。思いっきり手を叩いて、目を輝かせているではありませんか。その姿に気付いた川上師匠は娘に向かって「お嬢ちゃん、応援してくれてありがとう」と人形にしゃべらせてくれました。子供は、またまた拍手、拍手のはしゃぎよう。あっという間のひと時でした。この懐かしい出会いが後々、私を腹話術の世界に引き込むきっかけになっていくのです。
川上のぼる師匠
(2010年01月05日)
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⑥ぼやきの吉田
高校生時代、これと言った目標が無いまま過ごした私でしたが,無事大学に合格しました。「何かをやりたい」という体から湧き出るものがありました。残念ながら落研はなく体育会系の『日本拳法部』に入部しました。このスポーツは面、胴、股間ガード、手にはグローブを装着し、殴り、蹴り、投げ合うという、言うなれば防具を着けて空手と柔道をするようなハードなものでした。今、考えると、「あんな事をよくやっていたな」と思うほど過激で危険な武道です。そんな入部して間もない頃、先輩から「今度歓迎コンパをするので、新入生は全員その席でかくし芸を披露してもらう。考えておくように」との話がありました。私が考えた出し物は、その当時、遅咲きながら人気が出だした漫才コンビ「人生幸朗・生恵幸子」のぼやき漫才でした。ネタは高校生の時ラジオから録音したもので、そっくりそのまま暗記して、練習を重ねました。ネタの一部を紹介すると「水前寺清子のヒット曲、365歩のマーチ。これほど皆さんを馬鹿にした唄、おまへんで。1日1歩、3日で3歩、3歩進んで2歩下がる。3日で1歩しか進まんやないかい!!」とか「研ナオコのヒット曲、カモメはカモメ。あたりまえやないかい!!」etc・・・これを私が人生幸朗になりきって肩をゆらしながら「まあ、皆さん聞いてください」とやるのです。部員だけでなく、その場にいる人、皆、腹を抱えて笑っているではありませんか。大受けでした。初めて、観客を笑わせ、喜んでもらうという「恍惚感」を体験した瞬間でした。これをきっかけに、コンパなど、事あるごとに「ぼやき漫才」を披露した私は「ぼやきの吉田」とニックネームを付けられ、大学の卒業式の謝恩会では「大トリ」をつとめるという栄誉?まで獲得したのです。勉学の方は何とか6年で卒業したという感じですが、「日本拳法部」の活動は最後までやり通し参段をいただきました。そして、趣味の世界では「人を笑わせ、喜んでもらう」という楽しみを覚えた充実した6年間の学生生活でした。
(2009年12月19日)
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⑤初めて覚えた落語
高校生になって、中学生時代、あれほど夢中になっていた柔道も半年ほどで、やめてしまいました。かと言って、勉強にも身が入らず、唯一の楽しみが「落語」を聞くことでした。この頃はラジオでも落語の番組がよくありました。それを録音したり、レコードを買って繰り返し聞いていました。何回も聞いていると知らず知らずの内に覚えてしまい、クラスの友人2~3人の前でやっては受けて悦に入っていました。自己満足の世界です。その初めて覚えた落語が桂三枝の「七度狐」という噺です。上方落語では入門者、つまり前座が覚えさせられるネタだそうです。その時はそんな事は知らず、ストーリーが面白そうだということと三枝師匠の口調が自分に合っているように感じて覚えてしまったのです。この他に「善哉公社」 「池田の牛ほめ」も暗唱しておりました。二つ下の弟も落語が好きで、私の買ってきたレコードや、ラジオの落語番組を良く聞いていました。特に桂米朝がお気に入りで、ある時2枚組のLPレコード「桂米朝・上方落語大全集」を買って来た時はびっくりしました。全集は揃える事はできませんでしたが我が家には5集、つまり10枚のLPレコードが残っています。弟は演じることはせず、落語に関する書物や沢山のネタが載っている歴史的な文献などを読むのが好きで、私とは少し落語の楽しみ方が違っていました。今、振り返って見ると、高校時代はエネルギーが有り余っているにもかかわらず、何をして良いのかわからない。けれども何か打ち込むものが欲しい、自分独自のものを何かやりたい、というものが漠然とあったのかもしれません。それが学校の勉強であれば、それにこした事はなかったのですが・・・私の場合、落語を覚え、人に聞いてもらったり、独り言のように呟いている時が唯一、自分だけの世界にひたれる時間だったような気がします。
(2009年11月10日)
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④1080分落語会
昭和46年、私が中学3年生の時、空前絶後の落語会が開催されました。朝日放送が企画した「1080分落語会」です。午前7時から翌日の午前1時まで18時間ぶっ続けで、上方落語協会の噺家が入れ代わり立ち代わり57席の落語を語るという途方も無いものでした。当日、ラジオで生放送をやっていたらしいのですが、私は聞きそびれてしまい、後日、記念の3枚組LPレコードを購入しました。この中には最初の口上と最後の手締めの他、12席の落語が収録されています。その演者とネタは別表の通りです。読者の皆さんには馴染みのない名前が一人あると思います。橘ノ円都です。当時の最長老で持ちネタの多さも随一で、上方落語界の影の功労者です。その他の11人は人気者が顔を揃えており、現・上方落語協会会長、桂三枝の名も見られます。先日、20年ぶりにこのLPレコードを聞きました。上方落語ブームの真っ只中、満員の会場の観客のほとばしる熱気と演者のやる気が伝わってきて、ついつい噺に引き込まれてしまい、気が付いてみるとあっという間に12席聞いてしまっていました。この「1080分落語会」をきっかけに上方落語協会はさらに発展の一途を辿るのです。
(2009年10月08日)
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③上方落語ブーム到来
小学生の時、落語と出合った私は中学生になると益々その魅力に引かれていきました。おりしも、テレビ、ラジオでは若手落語家がもてはやされ、「仁鶴」「三枝」に代表される人気者が次々と登場して来たのもこの頃です。上方落語と言えば、お芝居や唄にもなっている伝説の爆笑王「初代・桂春団冶」が有名ですが、昭和の初期、上方落語は寄席でもかなり演じられ、落語家も相当いたようです。しかし、エンタツ、アチャコの「漫才」が寄席の中心になるとどんどん末席に追いやられ、落語家自体の数が少なくなりました。戦後は上方落語界の大黒柱であった大物噺家「五代目・笑福亭松鶴」や「二代目・桂春団冶」が立て続けにこの世を去ったこともあり、落語家が10人以下になってしまい、上方落語は滅びるかもしれないという深刻な事態に陥りました。そこで上方落語の灯を消してはならないと立ち上がったのが四天王と言われる「六代目・笑福亭松鶴」「桂米朝」「三代目・桂春団冶」「桂小文枝」です。この4人の活躍が現在の上方落語の基礎を築いたと言っても過言ではありません。私が中学3年生の昭和46年頃には、50人を抱える「上方落語協会」に発展していました。上方落語の復興がなったのです。
(2009年09月25日)
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②落語との出合い
父親が言うには「母方のお祖父さんはうたい(謡曲)が玄人はだしで、町内で婚礼があるといつも呼ばれていた」とのことです。独身の時、謡曲をプロの師匠に付き、習っていたらしいのです。その芸人の血が私にも流れているのかも?と言いますのは、小学生の頃から吉本新喜劇や松竹新喜劇ははもちろん、漫才などの演芸番組が大好きでした。落語も好きで、東京の噺家が今の「笑点」の大喜利のような形式で出演していた「お笑いタッグマッチ」や「末広珍芸シリーズ」というような番組を好んで見ていました。ここで初めて落語家なる者を知り、「噺家とはトンチを効かせたなぞかけや小咄をする人」というイメージを持ちました。一つの噺として最初に「落語は面白い」と感じたのは三遊亭歌奴(現・円歌)師匠の「j授業中」や「浪曲社長」を聞いてからだと思います。 円歌師匠とは何か縁があるのでしょうか。三十何年後に、この大師匠の前で私が落語を一席語る羽目になるとは夢にも思いませんでした。

円歌師匠と
(2009年09月20日)
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①私の趣味
皆さんも趣味はおありかと存じますが、私の趣味は「写真撮影」と「落語」、「腹話術」です。写真は我流ですが中学生の時にコダックのコンパクトカメラを親からもらって以来の写歴です。落語は高校時代から、腹話術は37歳から始めて、16年になります。写真も大変面白いのですが、今回は落語と腹話術に関して書かせていただきます。 この二つの趣味が、私の人生を豊かにし、さまざまな人々との出会いを生んでくれました。連載という形で、私の子供時代から現在に至るまでの趣味とのかかわりをこの欄に掲載いたしますので、お付き合い下さい。次回は「落語との出合い」 についてです。
(2009年09月17日)
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日本催眠応用医学会で発表
先日、東京で行われた日本催眠応用医学会のセミナーで「笑いで元気に」という演題で発表を行いました。患者さんと歯科医の関係を良好に保つにはどうしたらよいか?患者側と歯科医側の両面から、30年の臨床経験で学んだ事をお話しさせていただきました。また、後半は趣味の腹話術も披露し、喜んでいただきました。
(2009年09月15日)
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